羽田空港の守り神
神社の由来
社伝に由れば、文化元年の頃(西暦1804年頃)鈴木新田(現在の羽田空港内)開墾の際、沿岸の堤防しばしば高波によって堤防の腹部に大穴を生じ、海水の侵入による田畑の被害は甚大であった。困った村民は相議り、堤上に稲荷神社をお祀りした。それ以来堤防に穴が開くことはなく「風浪が作りし穴の害より田畑を守り給う稲荷大神」ということから、以後「穴守稲荷神社」と呼び習わされ、崇敬された。
当社は明治以来、大正・昭和を通じて、近在はもとより遠く海外に至るまで多くの人々の信仰を集め、崇敬者や講社参拝者は途切れることなく、奉納された鳥居は多いときで4万6千基余を数えた。ところが昭和20年4月、戦火のため社殿が消失し、同年八月、連合軍司令部の命により、空港敷地内よりの強制退去を余儀なくされた。しかし信仰の灯火は絶えず、地元有志等の境内地七百坪及び数多の人々の浄財が寄進され、由縁ある人々の努力の結果、昭和23年現在の鎮座地に仮社殿が完成。そして昭和39年の新社殿、平成4年の新社務所竣工を経て現在に至っている。
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村民等は相談して堤上に一祠を勧請し、処稲荷大神をお祀りしたのが始めです。
それからは堤防に穴が開くことも無くなり「風浪が作りし穴の害より田畑を守り給う稲荷大神」と呼ばれるようになりました。"
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string(417) "数ある人生儀礼の中におきましても、縁あって結ばれたお二人が、立派な家庭を築き、末永い幸せを御神前に誓う結婚の儀式ほど、厳粛で意義深いものは無いと思います。
穴守稲荷神社では、神職2名・巫女1名・楽人2名の5名奉仕にて奉告祭を行い、喜びと感動をもって、晴れやかな門出を祝福致します。"
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文化元年の頃(西暦1804年頃)鈴木新田(現在の空港内)開墾の際に、沿岸の堤防はしばしば激浪のために堤防の腹部に大穴が開き、海水が入っるなどの被害がありました。
村民等は相談して堤上に一祠を勧請し、処稲荷大神をお祀りしたのが始めです。
それからは堤防に穴が開くことも無くなり「風浪が作りし穴の害より田畑を守り給う稲荷大神」と呼ばれるようになりました。
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数ある人生儀礼の中におきましても、縁あって結ばれたお二人が、立派な家庭を築き、末永い幸せを御神前に誓う結婚の儀式ほど、厳粛で意義深いものは無いと思います。
穴守稲荷神社では、神職2名・巫女1名・楽人2名の5名奉仕にて奉告祭を行い、喜びと感動をもって、晴れやかな門出を祝福致します。
結婚式は、結婚するふたりの「心」と「心」を繋ぎ、
ご家族同士の「心」と「心」をも繋ぐ大切なもの。
おふたりの、ご夫婦としての出発は、
ぜひ、神社の結婚式で。