「三社さま」として親しまれている浅草神社
神社の由来
推古天皇の三十六年三月十八日のことでした。
漁師の桧前浜成・竹成兄弟が隅田川で漁労に精を出していましたが、その日に限り一匹の漁もなく網にかかるのはただ人型の像だけでした。幾たびか像を水中に投げ捨て、何度場所を変えて網を打ってもかかるのは不思議と人型の像だけなので、最後には兄弟も不思議に思い、その尊像を捧持して今の駒形から上陸し、槐(えんじゅ)の切り株に安置しました。そして、当時、郷土の文化人であった土師真中知にこの日の出来事を語り、一見を請うたところ、土師氏は、これぞ聖観世音菩薩の尊像にして自らも帰依の念心仏体であることを兄弟に告げ、諄々と功徳、おはたらきにつき説明しました。
兄弟は初めて聞く観音の現世利益仏であることを知り、何となく信心をもよおされた二人は、深く観音を念じ名号を唱え、「我らは漁師なれば、漁労なくしてはその日の生活にも困る者ゆえ、明日はよろしく大漁を得させしめ給え」と厚く祈念しました。
翌十九日に再び網を浦々に打てば、願いのごとく大漁を得ることができました。
土師真中知は間もなく剃髪して僧となり、自宅を改めて寺となし、さきの観音像を奉安して供養護持のかたわら郷民の教化に生涯を捧げたという。いわゆるこれが浅草寺の起源です。
土師真中知の没した後、間もなくその嫡子が観世音の夢告を受け、三社権現と称し上記三人を神として祀ったのが三社権現社(浅草神社)の始まりであるとされています。
これによると創建は今を去る千三百五十年程の昔ということになりますが、これは少々無理のようで、平安の末期から鎌倉にかけて権現思想が流行しだした以後、三氏の末裔が崇祖のあまり浅草発展の功労に寄与した郷土神として祀ったものであろうと推定されます。
奇しくも明治維新の神仏分離令により浅草寺との袂を分かち、明治元年に三社明神社と改められ、同6年に現在の名称に至ります。
今もなお、「三社さま」として親しまれている浅草神社ですが、元来三人の神様をお祀りしたことからそのようによばれています。
array(4) {
[0]=>
int(29)
[1]=>
int(30)
[2]=>
int(31)
[3]=>
int(32)
}
array(3) {
[0]=>
array(2) {
["text"]=>
string(323) "下町情緒溢れる浅草で「三社様」として広く親しまれている浅草神社。 重要文化財の社殿にて、雅楽の調べに合わせた昔ながらの厳粛な挙式。 境内の参進では参拝者から祝福の声があがり、温かい拍手が送られる様は下町ならでは。
"
["image"]=>
int(364)
}
[1]=>
array(2) {
["text"]=>
string(354) "建造されてから350年以上経過している歴史のある社殿は、本殿、幣殿、拝殿からなり、幣殿と拝殿が渡り廊下でつながれているいわゆる権現造りと呼ばれる建築様式で、日光の東照宮などがこれにあたります。その他、境内内には神楽殿、神輿庫などがあります。"
["image"]=>
int(365)
}
[2]=>
array(2) {
["text"]=>
string(395) "挙式を行う国の重要文化財の社殿は徳川三代目将軍家光公により寄進され、350年たった今もそのままの姿を残している大変歴史ある建物です。1件1件事前に式の流れに沿ったリハーサルを行うので、当日気持ち的にも余裕を持って式に望む事が、厳かな中にも家庭的で温かい挙式がおこなえます"
["image"]=>
int(366)
}
}
-
下町情緒溢れる浅草で「三社様」として広く親しまれている浅草神社。 重要文化財の社殿にて、雅楽の調べに合わせた昔ながらの厳粛な挙式。 境内の参進では参拝者から祝福の声があがり、温かい拍手が送られる様は下町ならでは。
-
建造されてから350年以上経過している歴史のある社殿は、本殿、幣殿、拝殿からなり、幣殿と拝殿が渡り廊下でつながれているいわゆる権現造りと呼ばれる建築様式で、日光の東照宮などがこれにあたります。その他、境内内には神楽殿、神輿庫などがあります。
-
挙式を行う国の重要文化財の社殿は徳川三代目将軍家光公により寄進され、350年たった今もそのままの姿を残している大変歴史ある建物です。1件1件事前に式の流れに沿ったリハーサルを行うので、当日気持ち的にも余裕を持って式に望む事が、厳かな中にも家庭的で温かい挙式がおこなえます
結婚式は、結婚するふたりの「心」と「心」を繋ぎ、
ご家族同士の「心」と「心」をも繋ぐ大切なもの。
おふたりの、ご夫婦としての出発は、
ぜひ、神社の結婚式で。